『半分、青い。』『高嶺の花』は芸術と生活が対立
芥川賞作家・磯崎憲一郎が朝日新聞に月イチで担当している文芸時評、8月分の枕で『半分、青い。』について「憤りに近い違和感」を持っていると書いています。
理由は「芸術が日常生活を脅かすものとして描かれている」こと。具体的には
- 漫画家を目指すヒロインは故郷を捨てて上京する
- ヒロインの夫は映画監督になる夢を諦めきれずに妻子を捨てる
- 夫が師事する先輩は、自らの成功のために脚本を横取りする
現実は逆で「故郷や家族、友人、身の回りの日常を大切にできる人間でなければ、芸術家には成れない、よしんばデビューはできたとしても、その仕事を長く続けることはできない」と書いています。
人間の業を描くためにはネガティブなことを経験することも必要だから、すべて否定するわけにはいきませんがそれがメインではない、ということでしょうね。
『半分、青い。』で憤っていては『高嶺の花』を見たら卒倒するかもしれません。
序盤は野島伸司脚本らしい変わったドラマで、それなりに見ていられました。しかし中盤、家元になるために「罪悪感」が必要、というキーワードが唐突に出てきました。華道家としての自信を失っていたヒロイン・もも(石原さとみ)は直人(峯田和伸)との結婚式から逃げることによって罪悪感を得ようとするなど、華道関係者は罪悪感原理に従って行動。率直にいって意味がわからず、もはやドラマにまったくついていけません。
『半分、青い。』の北川悦吏子に『高嶺の花』の野島伸司。ともに90年代に一世を風靡した脚本家。だからそのころの価値観なんでしょうね。『半分、青い。』はヒロインの側の視点で見るから離婚には否定的に描かれていて、『高嶺の花』は視聴率が低迷しているので、現代ではその価値観は受け入れられていません。
そういえば野島伸司、全盛期のころは女優と浮名を流していましたが、2011年頃にできちゃった結婚をしたという報道がありました。『高嶺の花』を見ていると、ヒットを出せなくなった自分をどうにかするため、罪悪感を得るべく妻子を裏切るんじゃないかと心配してしまいます。
最後に磯崎憲一郎が「これから芸術に携わる仕事に就きたいと考えている若い人たちのために」と書いていた一文を。「芸術は自己実現ではない、芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界、外界の側なのだ。」
岡本太郎やキース・ヘリングも「芸術はみんなのものだ」といっています。